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駄考
私は物書きです。
絵は描けません。描けたらいいなと思いますが、残念ながらその素養がないようです。
練習してみたこともありますが、上達する気がまったくしませんでした。
でも、頭の中で情景を思い浮かべることは得意でしたので、代わりに文章で表現する方法を追求しました。
脳裏に浮かんだ光景を違和感なく文章で表現できるようになりますと、小説を書くことができるようになります。
絵が描けないから小説を書こうと思った。小説を馬鹿にするつもりはありませんが、
このような経緯から物書きを目指した人は決して少数派ではないと思います。
さて、私のように絵が描けないから物書きを目指したという人間は、
本質的に挿絵の重要性を認識しているに違いないと考えます。
たとえば小説に、主人公を描いた挿絵をつけたとしましょう。
それだけで読者に、主人公はこんな容姿をしており、こんな服を着ているのだというイメージが生まれます。
しかもそれは絵という形で具現化されたので、全ての読者がイメージとして共有することができます。
このような効果を物書きが得ようとしても、絵描きさんには遠く及ばないでしょう。
描写力では、絵という情報に物書きが敵うはずはないのです。
物書きが絵描きより優れているのは、描写力ではなく構成力です。絵描きと物書きは、その特性が違います。よって小説と絵という形で複合すると、
相乗効果を発揮してより素晴らしいものが生まれるはず。これは普遍的に多くの先人達が支持する意見であり、私もこの考えを支持しています。
しかし、絵は描写しかできないものというわけではありません。
まずはこちらをご覧戴きたい。
こちらは我が盟友、井上神志さんの作品。
まあなんと冷んやりとしたパフェ……違ぃがぁぁぁぁうッ!!もうおわかりでしょうが、根本的なトコで色々なものを間違えています(笑)私はかねがね思っていました。
例えば竹の子書房で物書きが電子書籍を発行しようとする場合、
発行される電子書籍は紛れもなく『著者である物書き』の本だと思っています。
でも、絵描きが竹の子書房で発行する本のスタイルは、現在のところ『絵が先』シリーズしかありません。
この『絵が先』シリーズは絵描きがまずテーマとなる絵を発表し、
その絵をリスペクトする形で物書きが想起した物語をつけるというものです。
ですが、その本は純粋に『著者である絵描き』の本なのだろうか?
もちろん前段で申しましたように、
小説と絵という形で複合すると、
相乗効果を発揮してより素晴らしいものが生まれるはず。
このコンセプトが間違っているわけではない。ですが、その本はやはり複合作品であって、絵描きの純粋な作品とは違うのではないでしょうか。
私は、より絵描きにとって攻撃的かつ積極的な電子書籍の展開があってもよいと思う。
ゆえに私はここに提案をさせて頂きたいと思います。
竹の子書房の新しいレーベルとして、
『電子画集』を作ろうじゃありませんか!この提案をするに当たり、私の師匠である加藤AZUKI氏にもご意見を伺いました。
その結果として、
新レーベル『電子画集』の立ち上げは現在の竹の子書房でも充分に可能だという感触を得ました。
企画まとめなど、色々な意味で竹の子書房のために働いてくれている窓原壌のまとめがございます。
そちらをどうぞご参照ください。
竹の子書房から画集を出すための具体案ただし、電子画集の場合はイラスト収録点数に限界があるという側面もあります。
よって私としては、特定の作家のイラストをただ収録しただけでは駄目で、
より娯楽性とテーマ性を兼ね備えた画集でなければ電子書籍として成立しないのではないかと考えています。
点数的にも美術館ではなく、画廊の感覚です。
枚数が限定される分だけ、テーマ性が重要ではないでしょうか。これらを踏まえた上で、まずは井上さんの
『イノウエゴハン』シリーズを電子画集として成立させたい。また、これを基本フォーマットとして電子画集シリーズを、
より攻撃的な竹の子書房画課の新しい展開として定着させたいと思います。
制作年(普通は年までですが、厳密に分かるなら日まで)、
使用画材(ツール、ソフト)、
初出/初掲載、
仏像写真などだと、現物写真/対抗頁か次頁に由来由縁や所蔵者、解説など。
加藤AZUKI師匠から提示されたこれらの諸情報を収録し、
作品見本としても使用できる電子画集を!
そういうものを是非作りたいのです。
関係各位には、何卒ご理解とご協力を戴ければ幸いです。
と、いうわけだから井上さん……
後顧の憂いなく存分に『イノウエゴハン』シリーズ描いてください(笑)
最後にテーマ性についての見本ということで、
『イノウエゴハン』シリーズから
海老の残酷焼きを一つ。
……どこまで残酷なんだ(笑)(注)画像使用に際しましては、作者である井上神志さんの掲載許可を戴いています。
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駄考
コラボレーション(英: collaboration)
共に働く、協力するの意味で、共演、合作、共同作業、利的協力を指す言葉。竹の子書房の高田課長からお預かりしていたSF短編小説『スーパー・ウェディング』を、高田課長の許可を得まして当ブログ『わかさぎPack!』で展示させて頂くことになりました。
今まではあまり目につかない企画倉庫のほうで保管していたのですが、倉庫が一杯になりまして(笑)
『スーパー・ウェディング』は、拙作『君の目覚まし時計は音が大きすぎる』と対になる作品で、私と高田課長によるコラボレーション企画『スペース ハム+ハム』に収録予定です。
もっとも、電子書籍化するのは相当先の話になるでしょうが……他にもリリース待ちの原稿、たくさんございますので(汗)
しかし、ここで主張したいのはそういうことではありません。
つまり竹の子書房で原稿を書く大きなメリットとして、
コラボレーションを推進していきましょう! と、いうことが言いたいのですよ。
例えば原稿があったとして、これだけではただのテキスト文なわけです。
これを電子書籍化するのには、表装画ならびに挿絵をつけて下さる絵師のみなさんとのコラボレーション。
そして、誤字脱字の訂正および、場合によっては文章推敲を含む校正者とのコラボレーション。
レイアウトや組版など、編集者とのコラボレーション。
最後に電子書籍化した発表の場として、竹の子書房とのコラボレーション。
ざっと言って、普通に竹の子書房で電子書籍を発表するだけでこれだけの人の手を経由するわけです。
ですが、物書きと物書きとか、絵描きと絵描きによる組み合わせがもう少しあってもいいと思います。
たとえば、今回の企画『スペース ハム+ハム』のような―――
あるテーマを決めて、一緒にやってみたい人に声をかけ、
『やろうよやろうよ!』と遠慮なく声をかけるのにはそれなりの度胸が要りますので、
尻込みしてしまうケースもあるとは思いますが、
結果として普段扱わないテーマに踏み込むことによって見えてくる欠点と利点もあります。
例を挙げますと、今回の私の作品は弟子には不評だったんです。
「一人称は女性なんですが、たまに男の人(の視点)になってて、ちょっと堅い」
まあ私は男ですので、そこを指摘されると痛いと言わざるを得ませんね。
なにより弟子は女性なので、女性の気持ちは私より判っているはずです。
で、時間を置いてから数十回にわたり、私は原稿を読み返してみましたが、
訂正すべき箇所を一箇所も見出せませんでした。誤解のないように言っておきますと、これは弟子の指摘が間違っているということではありません。
おそらく指摘はそのとおり。
ですが彼女の主張どおりにしようと試みると、おそらく文書構造そのものが崩壊するでしょう。
作品中において私が組みあげてきたのは、『主人公の女性らしさ』ではないと思うのです。
私が腐心したのは『死者の書を読んでいるということに読者が気がつくのを可能な限り遅らせる』というもので、その目的については概ね達成していると思われます。
(ただし、理想を言えば最終段階まで引っ張りたかったので、その点では実力不足)
つまり情緒的に失敗しており、技術的には成功しているというのが私自身による再評価です。
また、この作品は完全に確立しており、これ以上手を入れてもより駄作となるだけです。
SFという普段手をつけないテーマは、このような壁を私に提示してくれました。
また同時に、技術だけでもこの域までは引っ張れるのだという、表現限界についても知ることができたわけです。
これを成果といわずして、何を成果とするべきでしょうか。
今後もこのようなコラボレーション企画は、可能な限り推進していきたいと考えます。
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小説展示
─ 編集情報 ─
▼2012年
▼竹の子書房 SF企画『スペース ハム+ハム』収録予定
▼小説 高田公太スーパー・ウェディング わたしと亜希子の結婚生活は決して良好とは言えないものだった。
悪友からのパーティの誘いを断るたびに、もしわたしが独身だったら恐らく全身をアルコールとドラッグまみれにしてそのパーティを楽しんでいるだろうと、物欲しそうに自分の姿を夢想したものだ。
観たい映画、読みたい本、趣味の全てに財産を投げ打ったら、どれだけ幸せだろうかと考えることもあった。
亜希子が好む音楽はまったくわたしと趣味が合うものではなく、退屈なコンテンポラリー・ジャズを目覚まし代わりに朝を迎えた日には、まるで監獄にいるような気分になった。
結婚から三ヶ月を過ぎた頃には、既に〈離婚〉の二文字が頭にあった。しかし妻として、女性としての亜希子の魅力と、わたしの妻に対する愛情がその考えを毎度打ち消してしまうために、その時点でもう六年の間、二人は夫婦でいることに成功していた。結果的にわたしの不幸など、天秤にかけると軽いものだったのだ。この六年という期間は、わたし達の間に確固とした愛情がある証であり、わたしがなにより誇りに思っているものだった。
つまりは、常にわたしの足元に寝そべっている結婚生活への不満と、単調な日々の退屈さを覆すことができるだけの愛が二人にあったわけである。
わたしは自分の不満を何一つ亜希子に伝えていなかった。妻の幸せこそを自分の幸せにするつもりでいたからだ。
妻のために何かを我慢することにわたしは慣れきるよう努力していて、必死でネガティヴな感情を鈍磨させようとしていた。
それこそが愛であり幸せであると、わたしは信じていたのである。
『フィックス――あなたの気持ちに根を張るするために』
亜希子は照れくさそうにそのナノ・ドラッグをわたしに見せた。
「そろそろいいかな、と思って」
わたしはその言葉だけで、妻の言わんとするところを察した。
その頃、ある女性誌が特集を組んだことで、〈フィックス〉は世間で話題になっていた。〈フィックス〉は脳内シナプスに繋がり、元来、個人が持っていた固有の感情の総量を半永久的に固定させるナノ・ドラッグだった。もっとも、その効果は薬物法で守られた気休め程度の僅かなもので、発売当初のネットのドラッグレビューでは、『プラシーボ効果にしか期待できない自己啓発剤』という低評価を受けていた。わたしはそもそも、犯罪に繋がらないよう配慮というオブラートで何重にも包まれたナノ・ドラッグに何の意味があるのだろうと疑問に思っていたため、そういったドラッグを服用する友人を、心の弱い製薬会社のカモと見下していたものだった。
「そうだな。そろそろいいかもな」
『さて本誌から質問です。あなたが、あなたの愛する人を思うその美しい気持ちは明日も存在しているでしょうか? この質問にある人は、存在すると答え、ある人は、そんなことはわからないと返答するでしょう。しかし、〈フィックス〉を飲んだら答えはひとつです。この魔法の(薬物法をクリアしている!)ドラッグであなたは間違いなく、美しい気持ちで明日を迎えることができるのです。さあ、あなたの愛情を変わらぬものへ〈フィックス〉してしまいましょう!』
人間が異性へ(あるいは同性へ抱く)恋愛感情の総量は、流動的に変化する。
ある日は魅力的に見えた異性がふとしたきっかけで、とんでもなくみすぼらしい存在に成り下がってしまうことは往々にある。そのきっかけは、単なる肉体疲労からくる苛々であったり、よくある恋愛のいざこざであったりと、様々だ。わたしの友人の中には、占い師の言葉をきっかけに別離を決めたカップルがいた。恋愛感情を守る鎧の強度は人それぞれであり、仮にどんなに分厚い鎧を着ていたとしても、必ずどこかにひびが入っているものだ。
しかし、〈フィックス〉を服用したならば、話は別だ。
ドラッグレビューに書かれていた通り、確かに〈フィックス〉はほとんどの面で三流薬物だった。
しかし人間の最も脆く、美しい鎧――恋愛感情にのみ、驚くべき効果を与えた。
『〈フィックス〉は、「死が二人を分かつまで」というフレーズに科学的な説得力を与えることができるのです。条件はただ一つ、二人ともそのカプセルを飲むまさにその時に、お互いのことを愛していることです。このナノ・ドラッグはあなた達夫婦の愛情にのみ作用します。他の副作用はありません。もしも、夫婦で〈フィックス〉を服用しても円満な生活を手に入れることができなかったら、それは残念――もともとそこには愛がなかったのです。』
恋愛感情の総量を固定するこの不思議なナノ・ドラッグは、人体への悪影響がないということも手伝って瞬く間に流行した。
今となっては、男女関係の相談に対する答えは「気になるなら〈フィックス〉してみなよ」のひとつしかなかった。
もちろん、こういった脳内シナプスに直接繋がるナノ・ドラッグを毛嫌いする者もいくらかはいたが、この神のリトマス試験紙を世間は完全に受け入れていた。
このドラッグを用いて、ある人は永遠を作り出し、またある人は永遠の可能性を絶った。
単に色っぽいパーティを盛り上げるジョークグッズとして使用する者たちもいた。
いつの間にか〈フィックス〉の包装箱にピンク色のハートのイラストがでかでかと描かれるようになっていた。
『本誌は、確かに愛のある夫婦が〈フィックス〉を利用し、真の意味での結婚を実現することを望みます! スーパー・ウェディングを果たしましょう!』
「わたし達、これからもずっと幸せでいていられると思うわ」
「ああ、そうだな」
わたしが、こんなもの飲まなくても自信があるんだがな、と言うことはなかった。
仮に小学生でもわかるよう噛み砕いて、いかにこのドラッグがヒューマニズムに反するかを訴えたところで、亜希子にはそれを理解できることができないだろうという、諦めがあった。
そして何より、〈フィックス〉を目の前にして、わたし自身が自力で愛情を守ることに疲れていたことに気づいた。
こんなモノを飲まなくても、わたしの愛は変わらないというには、いささか心が磨り減っていたのだ。
わたしは今、確かに亜希子を愛している。できることならば、この先も愛し続けたい。
何の苦労もなく。
亜希子がホームセンターで買った灰色の味気ないプラスチック製テーブルに、水が入ったコップと、カプセルが二つずつ置かれた。
私たちは木製の椅子に腰掛け互いに向き合った。
見ると亜希子の表情は何の疑いもなく幸せに輝いていた。
わたしは妻に微笑みを投げかけたつもりだったが、彼女の目にわたしがどう映っているかを不安に思った。
「これからもよろしくね」
「こちらこそ」
コップを掲げ、乾杯をした後、カプセルは二人の中に入った。
ここからカプセルが体内で溶け、腸に達したナノマシンが血管を経て脳に至る。
わたし達は痛みを感じないし、ナノマシンがシナプスに繋がった瞬間を感じることはない。
だが、その時我々二人は何かを待つように見つめ合っていた。
亜希子の顔は紅潮し、瞳は潤んでいた。
わたしはそんな妻を見て、なんと雰囲気に流されやすい安っぽい女だ、と思った。
かくして、我々はスーパー・ウェディングを終えた。
その後から今に至るまで、二人は円満な結婚生活を続けている。
そして、わたしは今も、三十二年前と同じように幸せを守ろうと必死で自分を殺している。
相変わらず、亜希子はつまらないジャズを聴いている。
あのカプセルが置かれたプラスチックのテーブルもまだ食卓に鎮座している。
六十歳になった今ではパーティに誘われることは皆無ではあるものの、体力があった頃に無茶を出来なかった自分を未だに悔やんでいる。
神の薬がわたしにもたらしたものは、決してわたしが永遠の愛を感じることができないという悟りだけだった。
日常の中で亜希子が見せる屈託のない笑顔は、とても美しい。
亜希子はわたしを愛してくれる。
我が妻に永遠の幸せを。
わたしなど、もはやどうでもいい。
もはや、どうでもいいのだ。
(了)
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申し訳ありませんが、この手紙は非公開とさせて頂きます。
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竹の子書房 新刊紹介
竹の子書房という作品発表の場を得てから、およそ一年。
氷原公魚全集を皮切りに、過去の執筆作品の一部を電子書籍という形で公開させて頂くことが出来ました。
また、いくつかの企画では新たに新作書き下ろしで短編小説を公開させて頂くことが出来ました。
ですが、本当の意味で氷原公魚の『復活』を告げるのは、
この作品をおいてあり得ないでしょう。
氷原公魚 編著 『破竹のナイトメア 第一巻』氷原公魚・第二期の開幕です。
十年の断筆を経て、再び鞘から抜かれたその筆の切れ味はどうなのか?
もはやナマクラなのか?
かつて「神に遭うては神を斬り、仏に遭うては仏を斬る」と念じて狂気に身を捧げた我が筆は、
再びその切れ味を取り戻すことが出来るのか?
この本がその答えです。
ちなみに筆を抜いたとき、鞘はどこかに投げ捨てて無くしてしまいました。
拾った方、連絡ください。
また、この『破竹のナイトメア 第一巻』は、
これまでの竹の子書房の電子書籍では考えられなかった大量のイラスト、キャラクター設定資料など、
惜しげもなくぶち込みました。
イラストを描いて下さった井上神志さん、彼の協力無くして、
これほどの豪華本は発刊できなかったでしょう。破竹のナイトメアはそういう意味で私だけの本ではなく、井上さんの本でもあると考えています。
僕らの本です。
その他にも、笑って斬られて下さった竹の子社員の皆様。
素晴らしくも鋭く解説をつけて下さった、竹の子書房での私の盟友・黒実操嬢。
そして数十年ぶりです。
私の師匠、私の担当編集者、私の全権代理人。
加藤一氏の、編集者としての仕事も是非御覧ください。
この本は多くの人の協力を得て、本当に薄皮一枚のギリギリのところで出せました。
本当にありがとうございます。
……そして、面倒くさいことたくさんやらせて申し訳ございませんでした。
最後になりましたが、当ブログでは『破竹のナイトメア』に関する特集記事を用意してございます。
当ブログ上部の、井上画伯書き下ろしのイラストをクリックすると特集記事を閲覧できます。
お暇な方は是非お立ち寄り下さいませ。
なお、いつも通り『破竹のナイトメア 第一巻』を初めとする竹の子書房の百冊に及ぶ刊行物は、
無料でダウンロード可能(注1)です。
(注1)例外について
紙媒体で頒布しております『竹の子書房の約百冊』だけは例外として有料です。
ただし、無料の電子書籍版もございます。